木曜日
気温25度というのは4月にしては異常な暖かさだけれども青い空に雲ひとつなく、風や光が爽やかで素晴らしい。いや待て、今日はもう5月だった。言葉が湧いてきてどうにかしないとおさまらない、という種類の喜びがなかった4月は、ひと月まるごと何処にもなかった。
水曜日
湖が灰色をしている。湖岸は工事中につき、いつの間にか木が切られていた。強い風、冷たい雨。肌から内臓から遠い記憶の傷まで、吹きさらしで凍えている。名前は知らない顔なじみの人間たちは、それぞれ犬に連れられて歩いている。エヴォリー、ダーシャ、バルー、ウィンストン、エマ、アドニス、ジョイア、ボドー、ネロ、…会えばしきりに呼んで話しかける、それは親しげに。そうして私の傷は癒える、そうやって小さな習慣は薬になり得る。私は弱い人間だから、なんということもないほんの小さなできごとでも疾患にかかるし、たった一匹のよその犬の名前が処方箋にもなる。
土曜日
楕円形の小さな窓がチリチリと燃えている、蛇口は閉まる気配が一向になくふたつの丸い出口から垂れ流される、頑丈な球体の中身はぼんやり膨張して機能せず、震える弁から連続的に大音量が放出、その吐き出し力は生命の基軸あばら骨をも砕くほどの破壊力、まるで永遠に続くかと思われる終わりの見えない刺激と興奮。毎年恒例、誰も待ってなどいないのに、律儀に訪れる季節のお祭り。週末だが、それも関係ない。
月曜日
虚無の5月だ。詩人ごっこをしているわけではない。ただひらめいたこと。
人間というのはいろいろあるが、突き詰めれば結局は、この世で暇つぶしをしているだけの存在なのかも知れない。
そういうことで暇つぶしなんだから、とにかく好きなように生きなきゃいけない、この短い時間を。
人間としてあらねばならぬせねばならぬこと、なんて本来はもともとない。暇を持て余すことに、恐怖を感じる理由はどこにもない。ただ生きている。そこにいて、調和の取れた心が平和である。ほかになんにも必要ない。
なんにもない、というのは開放的な潔さ、心地よさ。けれど周りを見渡すと、暇つぶしなんて誰もしていない。隙間や空白を埋め尽くすように、暇を否定する。もしくは暇を贅沢なご褒美のように特別視しようとする。それどころか暇が自我に化けて、自分を否定したりもしくは過剰に特別視したりし始める。人間は愛らしくも、いつもどこかで大きく偏っている。
一体なにをやっているのだろうということで虚無。詩人ごっこではない。
火曜日
このところ雨ばかりぐずぐずと降って、家庭菜園へ行ってもとりたててできることはない。晴耕雨読という言葉はいつ誰が言い出したものなのかはっきりしていないらしいが、それは今の私にとって憧れの生き方。菜園は、種まきや収穫、植え替え、剪定など、機を逃すと一年待たなければいけないという「待ってくれない事象」と、じっくり時間をかけて観察していないと結果はすぐには出てこない「待たされる現象」が混ざり合っていて面白い。異なった時間軸がいくつも並行している。せっかちとのんびりが共存。昨夜は強い雨が一晩中降り続いたが、種から顔を出してきた野菜の芽はみな無事だろうか。雨風にはげしく打たれて、たくましく育つだろうか。
日曜日
人を迎えに行った中央駅。
金曜日
まず、今日は金曜日であって土曜日ではない。気を抜くと、今日は土曜日ですという顔をして外へ出て行ってしまう。この光のなかで見ている景色は、まるでたった今、異世界に飛んできたかのような印象で目の前に広がっている。これは昨日までのものと同じところなのだろうか。まったく違う。太陽の光はまるで、舞台照明か映像や写真作品の中でわざと作られている光のように見える。ひょっとするとここはひとつの物語のなかなのだろうか。照明も背景セットも登場人物も立ち位置も、すべてあらすじに沿って綿密に作り上げられた、ひとつの芸術作品なのだろうか。案外、世界とは、そういうものなのかも知れない。
44