そういえば。ベランダに干したままにしていたヨモギの葉(家庭菜園で摘んできた)のことを不意に思い出した。それをちぎって小皿に置き、マッチで火をつけた。一秒だけすっと、細く短い煙がたった。香りはほのかに、煙より少しだけ遅れてくる。葉っぱはすぐに燃え尽き、灰となって小さく横たわる。むかし具合が悪くなるとよくすえていた、あのお灸の香りと同じ。私は元気になりたくて必死だったのと、自分の火への統制力を過信していたせいで、シャツの襟元や絨毯などを焦がしてしまった。そしてある時ふつっとやらなくなった。身体に葉を焼き付けることはこれからもうあまりないだろう。微細なもぐさの香りだけで、なにか、私を取り巻く内からも外からも、淀んだようなものがきれいに流れていくということが分かった。
祖母は原始的かつ独創的なもぐさのやり方で、みずから身体を整えていた。両足の足三里に黒く窪んだ小さな穴のようなものがあった。使っていたのはどんなものだったのか、市販の、安全に使えるようにうまく調整されたものではなく、葉っぱのひとつまみを固めたようなものを乗せて火をつけているのを見た覚えはある。まるで月のクレーターのようだな。私はそこにぼんやり宇宙を見ていた。祖母のやることをただ眺めていた幼い日々の思い出は、音のない壮大な世界。
慣例にただ従って、ということは自分自身の感性とは別のところの選択で、その日私はお香を焚いた。命が抜けた初代愛犬の横に。何かをする、ということを自分で決めるということさえも忘れてしまうほど目の前がかすんでいたため、何処かでうっすらと見聞きしていた、世間の通説的なイメージにただ動かされているだけの行動。けれど少したってふと、私は感じた。この、いかにもという形態で立ち上っていく煙と香りは、愛犬の命にはまったく関係のないものなのではないか。これは、ここにあってもなくても良いもの。なぜそこにあるのかというと、それは社会的経験から組み込まれてきただけの、慣例でしかない。私自身の純粋な想いでもない。確かに儀式は大切だ、ある決まった人間社会の中で生きて行く上での、品格に関わることでもある。けれど、私はなぜ、大切な愛犬にそれを施そうとしているのか。急にわからなくなった。線香と愛犬は、まったく相いれずよそよそしい。むしろ煙も香りも、愛犬の死そのものを覆うようなほどの強い主張をしてくる。私たちと愛犬のために、煙も香りもいらない。ここに必要なものがあるとすればそれは線香ではなく、光だ、愛犬を導いてくれる優しいともしびだ。いや。それよりも、旅のお供にクロワッサン。クロワッサンは初代愛犬が愛したもの。それしかない。私たちと愛犬の、ただひとつしかない、どこからもなんの干渉もない、それがあるべき自然なやり方だ。命のことだからといって、急に慣例に従順になる必要はない。反対をいうと、人間は日常的に、それほどまで社会的な「慣例」に、無意識に頼らされ依存させられていることが多いのだ。それは果たして私にとって「ほんとうのこと」なのか、と感じ考える隙さえ与えられずに。
8年ほど動かしていなかった本棚を空にして移動させ、その裏の壁を見たとき、気を失いそうになった。白い壁に、カビが小さな点として発生していた。犠牲となってくれた本棚の裏には、その何倍もの敷地でカビ王国。放り出された数々の本たちは、その本棚の裏の、身を呈した決死の守りによりすべて無事で、最近新しく借りられるようになった仕事場兼アトリエに、私設図書室用として移動した。本棚は処分し、壁を徹底的に掃除するも、あの独特なくすくすとした匂いはなかなか消せない。こういうときこそ、お香を焚けば良いのではないかと思いつき、あの日以来手にしていなかった小箱を開ける。むかし、静かな山の中にあるお寺へ、疲れるとよく行っていた。その心落ち着く場所から、異国での生活のお守りにと持って帰ってきたのは2種類のお香「あしび」と「吉祥」。結局なかなか使うことはなく、箱の中で眠ったままもうとても長く経つ。「あしび」は雨が降ると焚きたくなる時期があったり、香りとしては「吉祥」の方が好きであったりと、それなりの思い入れはある。とくに「吉祥」は、たまたま参拝した日に、秘仏とされて普段は見ることができない吉祥天立像の扉が開かれていたという幸運を思い出す。さて、それをカビのあった壁の下で焚いてみる。たしかに匂いは消えた。煙によって空気もどこか、何かと何かの濃度バランスがうまく変わった気がする。たとえそれが気のせいだとしても、それで神経は休まるのだから良い。あのお寺のことも久しぶりに思い出した。今年もそこの紅葉風景は、ひっそりととても美しいだろう。それにしても、カビの匂いは中和されたが、その分、くゆらされた煙と香りの粒子がずっと鼻腔空間に張り付いているように感じるし、喉もまるでいぶされた燻製の粘膜体のようだ。
もっと自然な、身も空気もすっとなるような、軽いものはないだろうか。そういえば。ベランダに干したままにしていたヨモギの葉(家庭菜園で摘んできた)のことを不意に思い出した。それをちぎって小皿に置き、マッチで火をつけた。
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