47 夏のメモ 牛

 

 

 気がつくと、牛たちが木陰からじっとこちらを見つめていた。ため息とも唸りとも声とも言えないような、たっぷりの空気を含んだ分厚い音を立てて呼吸する。あなた誰ここで何してるのと尋ねられているようだ。牛は私の話を聞いてくれそうな優しい瞳をしているが、だからと言って調子に乗って話し出すと、どうでもいいよそんなことという横顔で、のしのしと去っていってしまう。

 

 家庭菜園と金網フェンスを隔ててすぐ隣の牧草地には、ときどきこうやって牛や羊が放牧される。牛たちは暑い日に、日陰や新しい草を求めてウロウロと束になって移動する。枝が牧草地に少しだけ張り出したこの家庭菜園の大きなプラムの木の葉を、牛は大きな舌を駆使して楽しそうに喰む。太く長い舌をうまく回転させながら、ぐうんと上に伸ばして葉をむしり取る。その反動でプラムの枝が空に弧を描く。

 

 立派な牛たちの群れが去ると、今度は痩せた牛が一頭、私の近くでもの静かに立っていた。すぐ後ろにいるとは知らず、振り返ったときに驚いて、小さくワッと声が出た。顔にも身体中にもたくさんの銀蠅を抱え持ち、今にも蠅の海に飲み込まれてしまうのではないかと、だから助けを求めているのではないかと心配になるような弱々しく潤んだ目線であった。どうしたの、どうして独りなの。けれど別段、なにかに助けを求めているようでもないらしい。何をするともなくよろよろと、その一頭はつねに群れから遠く離れたところへ移動する。見えないなにかと踊るように、まるで幼児の平和な一人遊びのように、まわったり跳ねたり急に走り出したりして、たった独りでむしろ愉しそうに、他とは明らかに違う動きをしている。そして群れが近づくと、さっとその場を離れる。

 

 もし自分の愛する子どもがそのようであったら、という非現実的な想像が突然、私の中でひとり歩きし始めた。そのいじらしく健気に生きる姿が、私の愛する大切なちいさな存在に重なって、心がぎゅうと握りつぶされたようになった。私には子どもはいない。だからこれは奇妙なことだ。けれど理屈や思考ではなく、身体的実感としてそれは、内部の皺から悲しい血が滲み出てくるような、なんとも言い難い痛みだった。握りつぶされてくしゃくしゃになってしまった紙はまた広げても、もう二度ともとどおりの、皺ひとつないまっさらな紙には戻れない。

 

 しばらくしてまた群れが近くに戻ってきた。なにやら血気盛んな時間帯に入ったらしい。群れのなかでの秩序が保たれ、生命の決まりごとがいま、私の目の前で繰り広げられている。いたって真っ当で健全な生きものたち。明るく、疑いなく、強く、地球上を生き抜くうえで正しいものたち。正しい牛たちよ、おめでとう。正しく生きる人間たちも、おめでとう。私は悲しいです。

 

 遠くでは痩せて踊る独りの牛が、同じところをぐるぐると足踏みしていた。その足取りはフワフワとして、その姿そのものが夢想であった。どんな形でも良いのだから、このじゅうぶんに悲しく理不尽な世界で、その命を生き抜いて欲しいと私は願った。

 

 

 

 

 

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